1947 新たな住友電工の歴史がスタート

1947年 新たな住友電工の歴史がスタート

日本が文化国家として
再建するために

太平洋戦争末期の1945年6?7月にかけて、住友电工大阪製作所は4回もの空袭を受け、工场の3割が全壊、消失し、従业员にも多くの死伤者を出した。

终戦から二日后の8月17日、当时の别宫社长は、焼け残った通信ケーブル工场に全従业员を集め、今までの労苦をねぎらった后、「今后、日本は文化国家として再建しなければならない、そのためには、当社製品は不可欠なものであるから、(中略)一所悬命电线の生产に励み、少しでも製品を多く作り、その使命を达成すればよい」と训示し、復兴に向けて歩み始めた。
生产设备の復旧、资材の逼迫、物価の高腾などを乗り越えつつあった1947年に、昭和天皇による関西行幸が决定され、住友电工も巡幸先の一つとなった。

行幸当日は、云一つない晴天で、超高圧実験室の建物の前に、ご到着。超高圧実験室では、社歴と现况を别宫社长が言上すると、「大切な仕事であるから、なおしっかりやるように」との激励の辞を与えられた。その后も、鋳造工场、线材工场、被覆线工场をご覧になり、従业员へ多くの激励のお言叶をいただいた。

1947年は、创业50周年であり、行幸を仰ぐまでに復活した新たな住友电工のスタートであった。

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